関係性ということ

 この間の小川本埜村長による混乱をいろいろな角度から総括していく必要があると思います。

 そのうちの一つの視点として、住民、議会、首長といった、地方自治、民主主義の構成要素がそれぞれどのような関係にあるかということを、今回の騒動が見せてくれたという面があります。この点では、ある意味で小川氏の「功績」というか、とにかく小川氏が非常に露骨な形で、「首長の権限の奮い方」を限界まで見せてくれたために、通常の自治体や議会の運営ではオブラートに包まれている部分まで、白日の下に晒されたという言い方ができるのではないでしょうか。

 9月7日に2人の議員が村長不信任を付議事件として臨時議会の召集を要求したが、村長は自治法で定められた「20日以内」に議会を開きませんでした。この時、村長の周辺の人間から流れてきたのは、「議会の召集義務に違反したといっても、罰則はない」「自分が不信任を受ける議会を開くバカはいないでしょう」といった意味の話でした。たしかに罰則はないし、議会を開くことによって、自分が不信任され、(村長の言い分によれば)村政に「空白」が生じるのは好ましくないという(屁)理屈によって、その後の村長は以前にもまして傍若無人の姿勢を強めていくわけです。

 この時、私などもそうでしたが、ほとんどの人が当初、「その時は、住民が訴訟を起こせばいい。国や県もまさかそんな事態を放置はしておかないだろう」と軽く考えたのです。

 しかし、実際には、こういう場合で住民訴訟を起こすといっても、「住民とは誰なのか」の定義から非常に難しい問題が出てきてしまいます。訴状を裁判所に持っていっても、おそらく門前払い(訴訟によって「住民」がどのような利益ないし不利益を受けるのか不明)でしょう。国や県に問い合わせても、県から首長に(強制力のない)「勧告」をするくらいしかテがないというばかり。

 「地方自治」のシステムは、住民が選挙で選んだ首長にかなりの権限、権威を与えており、国や県といえども、みだりにこれを侵害、干渉することはできない仕組みになっているという、一般的な原則は知っていましたが、こういう事態で首長の「みだりに侵すべからざる」権限というものが、これほどの威力を発揮するとは思いもよりませんでした。

 結局、こうした経緯の中で、本埜村民の皆さんは、一切のきれい事、幻想を捨てて、この首長のこれ以上の暴走を止めるためには、リコールしかない、議会は議会で不信任しかないという結論に達していったのだと思います。つまり、本埜の人たちは自分たちを「住民」とか「市民」といった、ある種のオブラートに包まれた存在から、「有権者」という形へ自己規定をし直し、自分たち(有権者)が3年前に票を投じて選んだ小川村長が問題を起こしている→選んだ自分たちの失敗だった→この失敗を取り戻すために、3年前に選んだというところから出直す(=リコール)という方向へ突き進んだのだと思います。

 小川氏のような無法、傍若無人の首長に対しては、「市民」も「住民」も太刀打ちできません。ただ一つ「有権者」のみが、小川氏の暴走、小川氏がメチャクチャにした村政の立て直しを行うことができるということです。

 民主主義の根幹のところでは、首長、議会、有権者という3者が、緊張関係をもって拮抗している。有権者は、選挙(リコールを含む)を通じてのみ、首長と議会をコントロールし、首長、議会はいったん選挙で信任を受けたら、任期期間中は法に定められた範囲内で相当の権限を行使できる。このプロセスに、「住民」や「市民」、あるいは国や県がみだりに干渉することは許されていない。

 こういう関係が極めてシビアに問われたのが、今回の本埜村の騒動だったと思えます。

 

 

騒動から見えてくるもの

 違法で支離滅裂ではありましたが、とにもかくにも小川利彦本埜村長が、この間一人で村政や合併協議の場を引っかき回し、皆が「あれよ、あれよ」で、為す術もなく翻弄されてきた、その意味では「大したもの」という評価をあちこちで耳にします。また、事情はどうあれ、この間の騒動で実に多くのことが明らかになり、地域の政治、住民主権のあり方、地方自治の「落とし穴」といった点で、今後の教訓としなければいけない課題も多く残されることになります。

 私がこの間の騒動を観察していたく感じたのは、例えば、首長というのは、大変な権力を持っており、その気になれば良くも悪くも相当なことができることであり、しかも、本人が「降りる」と言い出さない限り、周りから引きずり降ろすのは絶望的に難しい存在であることでした。また、世の中には「話し合い」ではどうにも片がつかない問題や人物が存在するといったことも、残念ながら今回の教訓とせざるをえません。要するに、「住民主権」「地方自治」といった建前も、われわれがよくよく考えておかないと、いつ空洞化させられるか、油断もスキもあったものではありません。

 一方で、今回かくも支離滅裂な言動を繰り返した小川氏が、18年3月の村長選では、当時の五十嵐村長の「疑惑」を追求する「正義の人」、この人に任せれば最も早く合併が実現できるといった、大きな期待、信頼を集めて、見事に当選したことを考えると、選挙でどのようにしたら間違った判断をしないで済むかといった、非常に重い課題を住民に突きつけています。今回のケースを観察しての印象では、この問題は、単に住民一人一人が常日頃から行政やまちづくりといったことに関心をもち、行政の側も情報を公開し、住民の参加を促すといったことだけでは済まない問題を含んでおり、だから余計に難しい課題をわれわれに突きつけています。18年の村長選の頃、どちらかというと行政に日頃から関心をもち、積極的に参加していた人達の多くが、小川氏に騙されたという事実は否定できないと思います。

 一般的な情報公開とか住民参加などでは解決しない問題を含んでいる、今回のケースは、われわれが地方の行政や国の政治とどう向き合い、どのような情報を得て、またどのようにバランスのとれたものの見方を養っていくかという、非常に奥の深い、簡単には「解」の得られない性格の問題なのだと思います。

 小川氏の言動から酌み取るべき問題は、まだまだあると思います。今それを整理しているところなので、今後逐次問題提起していきたいと考えています。

どこまで続く「悪あがき」

 11月23日本埜村議選で、「反村長派」が圧倒的な勝利をおさめ、小川村長も、村長にくっついてきた議員&候補たちも惨敗を喫した後も村長の「悪あがき」は続いているようです。

 選挙の終わった翌日、5人の議員が議会の開催を申し入れ、これとは別に4人の議員による議会招集請求があったにもかかわらず、今日に至っても議会は開かれず、結局このまま12月27日の村長解職投票まで現在の膠着状態が続いていきそうな気配です。

 しかも、村長「最後の抵抗」として、この解職投票の差し止めを求める訴えを起こし、何とかリコール運動そのものを妨害しようとしているのですから、「往生際が悪い」などという、ありきたりの形容をはるかに超えた人物であり、事態というほかありません。この、村長による悪あがき訴訟に対しては、リコールを推進する陣営が、万が一にも小川村長のクレイジーな要求が法的に通るようなことのないよう、適切な対応をとりつつあるので、悪あがきは文字通り悪あがきにしかならない見通しですが、一連のドタバタ劇を見ていて、小川村長の発想および行動パターンに面白い傾向があるのに気がつきました。

 解職投票の差し止めを求める訴えというのは、解職投票を管理する選挙管理委員長を村長が訴える形ですが、訴えられた選挙管理委員長は当然の措置として弁護士を雇うことになります。この弁護士を雇う費用の決裁について、小川村長がこれを認めないと言って大騒ぎしたと言います。村長としての権限をもつ小川氏と、リコールから逃げ回る小川氏とが入り交じって、何やら複雑な関係のように見えますが、実はこのドタバタにこそ、このところの小川氏の行動パターンの一つの特徴が如実に現れています。
 
 「公私混同」という言葉がありますが、小川氏の場合、発想も行動も10割100%「私」で占められており、「公」などという意識の入り込む余地はゼロなのではないかと思います。リコールや不信任を避けるために、平気で地方自治法を侵すし、合併申請義務違反にもヘッチャラという傍若無人ぶりを見せつける一方、自分が訴えた選挙管理委員長が公職として対抗策をとろうとすると、それは認めない・・・・。

 論理も大義も、公共の利益も、この人の辞書にはないようです。

村議選以後・・・・

「東京から来た嫁」さんへ

 村議選の公開討論会にご参加いただき、ありがとうございました。

 本埜村では、今まで候補者たちの申し合わせで非常に「大人しい」選挙選をやってきました。宣伝カーを走らせたり、大音量のスピーカーで屋内にいる有権者に訴えるなど、すべて御法度でした(今回、こうした慣例を見直して、宣伝カーやスピーカーで回る候補も少数ながら見られたようですが)。

 こうした御法度は、良い意味では候補者たちの良識の表れ(なるべく選挙のことで住民に迷惑をかけない)ということもでき、また在来の村落では候補者も有権者もお互い子供の頃からよく知った仲、お互いの家族構成まで分かった者同士という条件なので、選挙だからといって、事改めて「政見」の訴えかけをする必要はなかったのだと思います。

 しかし、滝野というニュータウン地区が整備され、そこに一気にたくさんの人たちが移住してきた後、こうした選挙戦のあり方では、有権者からみて候補者の顔、考え方、政策等に関する情報、誰に一票を投じたらいいのかの判断材料がうまく入ってこない、滝野では極端な「情報過疎」状況が存在してきたと思います。

 このような「情報過疎」状態では、特定の情報を継続的かつ大量に流し込まれると、ほとんどの人がその特定情報に過度に影響される危険性が高まります。私の観察では、この点をうまく突いたのが、18年3月の村長選での小川利彦氏だったと思います。

 彼は、それまで長い間当時の五十嵐勇村長の「疑惑」事件について、執拗に「追求」し、村内、特に滝野地区に大量のビラを撒き、一つの世論(五十嵐=悪い奴)を形成することに成功しました。実際には、その後五十嵐氏は、名誉毀損などで小川氏を訴えて、3回裁判に勝訴しており、小川氏が大量のビラを撒くことで形成した「世論」なるものは、必ずしも根拠のあるものではなかったわけですが。

 今回の討論会は、特に滝野地区の「情報過疎」に少しでも風穴を開けようと試みたものですが、多くの方が、各候補者の主張に初めて接したり、あるいは少なくとも各候補者が一同に会して、議論し合うという場面を見聞きするのは初めてだったろうと思います。

>図らずも小川村長のおかげで本埜村村民の意識が高まっていることを心強く感じることができました。

 この点は、仰るとおりであり、小川村長のこのたびの行状は、逆に多くの村民の意識に「火」を点けたといえるでしょうね。皮肉なことですが、これは小川村長の「功績」かもしれません。

>合併への期待はそう大きくはありませんが、現状よりは期待できるかな?程度。

 市町村合併というテーマは、政治的に語られる(「メリットとデメリット」「是か否か」という2分法)ことが多いのですが、そもそもこれは、一つの広域的な地域が今後どう運営されていくかという、大きな地域戦略の一角を占める問題であり、そう簡単にメリットもデメリットも見えるものではないと思います。合併を推進しようとする側は、どうしてもメリットを強調しようとするので、「合併さえすれば、すべてが良くなる」式の議論に傾きがちですし、逆に合併に批判的な人たちは、現状の問題点(+それらの問題点が近未来にどれだけ悪化するか)に目をつむりがちだと思うので、議論を聞いている一般の住民には、もう一つよくわからない、どちらの議論にもしっくりしないものが残るのは当然だと思います。

 特に「平成の大合併」というのは、何らかのメリットがあるから合併するというより、このままだと今よりももっと大変なことになるから、それを避けるために合併する、という割り切り方しかないのではないかと、個人的には考えています。それと、この地域固有の問題として、ここまで高規格のインフラを整備してきた千葉ニュータウン事業が平成25年度をもって収束する、その後のこの街をメンテナンスしていくのに、印西だ、白井だと言っていては話にならないでしょう、ましてや、村が村のまま残っていけると考えるのは、少し甘過ぎやしませんか、という思いがあります。

 結局、地域が抱えている問題がこの先どう改善されていくか、それとも悪化の一途を辿るかを予測し、たくさんある課題の中で優先順位をつけて、その視点から合併を考えていくという方法しかないのだと思います。

是々非々でいくと・・・・

 最近この地域で起こっているいろいろな問題で、本紙および当サイト(ブログ、炉端会議)でも関心をもって取り上げている問題を、小紙なりの「常識」あるいは「良識」で感じたり、考えたことを表記すると、以下のような感じになります。

北総線運賃問題
 本紙10月10日付で取り上げたように、県と沿線6市2村で合意し、京成・北総と取りまとめようとしている「5%値下げプラン」なるものは、この地域の住民として、全く評価できないし、関係者は一生懸命取り組んでいるのでしょうが、「結果」を待っていた住民の率直な感じとして、やはり失望を禁じえないといったところでしょう。小紙としても、引き続きこの問題をフォローしていくつもりですが、今後はこの「5%値下げプラン」に対する失望をも踏まえてのフォローということになります。

◇白井の梨ブランデー事業
 これまでこの事業に関わってきた人たちの多くが、どこか当事者意識を欠き、「親方日の丸」的な意識で関わってきた印象が強く、また多くの関係者が、問題に正面から向き合うことをせず、逃げ腰だったように思えます。
 そうした中で、現在会社の破産処理をめぐって対立している関係者(市側の市長、市民経済部長(会社の代表取締役)と草間氏)が、初めて「当事者意識」をもって、この問題に向き合っているようにみえるのは、甚だ皮肉な現象といえます。特に、市側の市長と市民経済部長は、たまたま巡り合わせで最もしんどい局面でこの問題に向き合わざるをえない立場に立たされているわけですが、こうなったら、市民および個人株主といった人達も、できるだけ傷が軽く済むように、市長・市民経済部長を応援しながら、事態の推移を見守るのが、賢明なのではないでしょうか。これは、白井市としての一種の危機管理の問題でもあると思います。

◇合併問題
 本埜村長の異常きわまる対応から、とにかく合併の流れを「守りぬく」ことが、最優先課題かと思います。これは、合併に賛成か反対かという立場を越えて、この間の本埜村長のような振る舞い、やり方によって、合併が壊されるとしたら、この地域の民主主義、住民自治といった問題に大きな傷跡を残すのではないでしょうか。村の職員など、村長に近いところで仕事をしている人達からの情報でも、村長の「合併つぶし」の動機は、きわめて個人的で、利己的なものとしかいえず、しかもそのやり方は、悉く異常、陰湿なものです。たった一人のクレイジーというしかない人物の、イレギュラーな行動によって、住民がリコールで、議会が不信任で表現した「民意」が踏みにじられるのだけは、絶対避けるべきだと思います。これも、本埜村全体としての、そして合併パートナーである印西市印旛村をも含めた地域全体としての危機管理の問題として、できるだけ卒なくこなしていく必要があると思います。

つくづく、なるべきでない人を村長に選んだ罪・・・・

 当初の意に反して、このブログも「本埜村長批判」専用ブログみたいになってしまったことを悔い、しばらくエントリーしませんでしたが・・・・。

 リコール署名で、必要な有権者の3分の1をはるかに超える、有権者過半数を集めても、10月9日の議会では、議員の4分の3(6名)の議員が起ち上がり、村長不信任が可決されても、それでも「意気軒昂」「やる気満々」の小川利彦村長・・・・。ふうーっ。普通、ここまで来るまでに、最後のプライドを振り絞って「辞任」するものナンですがねぇ、この期に及んでも「やる気満々」って、いったい・・・・。

 議会で不信任決議案が出される前の晩、集まった議員の中から、「武士の情けで、何とかならないのか」という声が出たと聞きますが、お気持ちはよーくわかります。仮にも、小なりとはいえ、一つの自治体の長を張った人が、住民からの信を失って、職を投げ出さざるをえない局面を迎えているのですから、最後は何とか「花道」なり「名誉」なりを用意してお引き取りを願うのが、日本人のやり方なのでしょうが、このままでは、そんなことは夢のまた夢のようです。

 相手がどうしても頑張っている以上、住民や議会だって手を緩めるわけにはいきません。議会で不信任が可決した直後、小川村長は課長会議を招集して、次のようなことを「命じた」そうです。

①村長不信任案の可決に対しては、議会を解散し住民の民意を問うつもり。
②合併に係る事務は一切行わないこと。また、合併事務局に派遣している職員は引上げる。
③その他の一般事務については、従来通り行い、22年度当初予算編成は、合併がないものとして予算編成の事務を進める。
④年内に人事異動を行う。

 あくまでも、合併つぶしを図るとともに、何が何でも村長職にしがみつくつもりのようです。

 議会でも不信任案についての「賛成討論」の中で、ある議員が「小川村長の存在、振る舞い自体が、村の子供の教育に悪い」と言っていましたが、その通りだと思います。だいたい、住民の圧倒的多数、議員の全員が合併推進を求める中で、リコールと不信任を突きつけられた首長が、村の幹部職員に対して、合併手続きの進行に逆らうよう、業務命令を出す、そんな業務命令が果たして「有効」なのでしょうか。業務命令に背いたら「懲戒解雇」だと、職員を脅しているようですが、自分は、住民からの命令(公約)をすべて裏切っておいて、職員にだけは自分への「信」を最後まで求めるというのは、身勝手という以上に、不道徳そのものだと思います。

 別のところで、村長は「村の職員は、(村長である)自分が雇った雇い人なのだから、煮て食おうが焼いて食おうが勝手だ」という意味の言葉を吐いているそうですが、この言葉に、小川利彦氏の発想、行動原理のすべてが凝縮しているようです。この人は、現代日本のような民主主義国での地域の首長になど、間違ってもなるべきではなかった、タイムマシーンで古代か中世に飛んでいって、そこで王様にでも、領主にでもなればよかった・・・、あっ、そうか、タイムマシーンでなくても、日本の近くに国民を飢えさせ、近くの国民を拉致しまくる、トンでもない国があることを思い出しましたが、ああいうところで独裁者でも将軍でも好きな立場を目指せば、本人にも本埜村民にも極めてハッピーだったのに、と思います。

非学者、論に負けず

 今回の合併協議をめぐる小川利彦本埜村長の言動については、住民によるリコールや議会での不信任で、小川氏が村長の座からはずれる形で決着する公算が強まってきましたが、一連の動向を見ている中で、ことは単に小川氏の特異なキャラクターといった問題にとどまらず、この地域の行政、議会、住民の関係、もっと大きくいえば「民主主義」「住民主権」「地方分権」といったことからも、無視できない要素が多く含まれているのを感じます。今後、これまでの取材メモ等を整理しつつ、少し「引いた」アングルから、この問題を考えていきたいと思いますが、このエントリーでは、他のコメントや掲示板の書き込み等を読んでいて、前から気づいていた点を取り上げてみます。

 議会や合併協議会、あるいは記者会見のような場で、小川氏に質問したり、議論した相手からよく「この人(小川氏)と議論してもムダだ」といった嘆き節というか、あきらめのような言葉を聞くことがあります。端で聞いていても、たしかに議論は全く噛み合っていないし、こんなやり取りを何時間続けていても、何らかの生産的な結論なり、議論の発展は望めないだろうなと思います。

 そんな経験を何度となく繰り返すうちに、私が出会ったのが、タイトルに掲げた言葉でした。議会その他の場で、小川氏が相手の言っていることを理解できないのか、あるいは意識的に理解を避けているのか、それはわかりませんが、とにかく議会の一般質問でいえば、議員が聞こうとしていること、あるいは村長を批判している内容等々と、「見事」なまでのすれ違いを見せます。議員の方は、村内のごく日常的な事柄について質問しているのに、答弁する小川氏の話は、いつともなく世界経済の話に飛躍したり(それも質問内容と関係がありそうにもみえないレベルで)、いきなり日本国憲法が出てきたり、といった具合です。

 そういうやり取りを聞いていると、相手の言うことなど理解しない方が、議論やディベートでは有利に立つこともあるんだな、これも一種の才能なのかもしれないと、妙な感心をすることがたびたびです。